私はFacebookで興味深い投稿を見つけましたので、以下に転載します。
それに対して、私は次のように述べたいと思います。
以下がその投稿です。
【カタカムナの学び】 ヤマト・ユダヤ・アーリアの本質
【ユダヤ・ヤマト・アーリアについて】
「ユダヤ」「ヤマト」「アーリア」
これらは、しばしば
民族・血統・人種の話として語られてきました。
けれど、古代の言語構文と思想の深層を辿っていくと、
まったく違う景色が見えてきます。
これらは本来、
民族名ではありません。
共通して指しているのは――
状態であり、位相であり、生き方の名です。
魂が
人類の祖神(宇宙の根源原理)と結ばれ、
天と地の理をその身で悟り、
それを生きる段階に至った者たち。
その存在状態を
インドでは「アーリア(Ārya)」と呼び、
中東では「ユダヤ(Yehudah)」と呼び、
日本では「ヤマト(大和・真人)」と呼んだ。
言語は違えど、
指しているものは同じ。
・真理と結ばれた者
・使命を授かり、それを行じる者
・自己を超え、全体に仕える者
それが、
ユダヤであり
ヤマトであり
アーリアだった。
だから本来、
これらは他者を排除する言葉ではなく、
優劣を競う言葉でもない。
「そこに至るかどうか」
ただそれだけを示す、
普遍的な人類の霊的到達点の名称だった。
もしこの理解に立つなら、
民族間の対立も、
優越思想も、
根底から意味を失います。
残るのはただ一つ。
人は、
真理と結ばれたとき、
皆「同じ名」を生きる。
ユダヤも、ヤマトも、アーリアも――
それは
**人類が本来目指していた「一つの完成像」**の
別々の呼び名だった。
もしも、血統や民族だけの概念でのくくりならば
祖先の心とは結ばれることの意味がなくなり
ただの既得権益しか残らない名となってしまう。
これがアークによって示される真実。
ユダヤも、ヤマトも、アーリアも
その実態は形あるものではなく
形なき『空』であるから
普遍継承されるものであるのです。
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① ユダヤ(Jew / Yehudah)
音分解
YU – DA – YA
サンスクリット語根対応
• YUJ(युज्)
結ぶ・合一する・ヨーガ
• DA(दा)
与える・授ける
• YA(य)
行く・顕現する・動く
構文的意味
YUJ + DA + YA
神(真理)と結ばれ、
授けられたものを、
行として現す存在
サンスクリット的再解釈
「真理と結ばれ、使命を授かり、それを生きる者」
民族名ではなく「契約的・霊的位相の名称」
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② 大和(ヤマト)
音分解
YA – MA – TA(/ TO)
サンスクリット語根対応
• YA(य)
行く・向かう・発動
• MA(मा)
測る・包む・母・秩序
• TA(त)
それ・確定されたもの・真実
構文的意味
YA + MA + TA
行として顕れ、
調和と秩序を測り、
真実として定着する
サンスクリット的再解釈
「真理を調和として地上に定着させる者」
ヤマト=血統ではなく「和を体現する完成位相」
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③ アーリア(Ārya)
音分解
ĀR – YA
サンスクリット原語
• Ārya(आर्य)
• 高貴な
• 正しい
• 聖なる
• 真理を理解した者
語根構造
• Ṛ(ऋ)
宇宙秩序・リタ(ṛta)
• YA(य)
行く・生きる・実践
構文的意味
Ṛ + YA
宇宙秩序を、
生きる者
サンスクリット的再解釈
「真理(ṛta)を生として歩む者」
民族名ではなく、悟達段階の正式名称
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④ 三者をサンスクリット構文で統合すると
名称 サンスクリット構文 本質
ユダヤ YUJ + DA + YA 真理と結ばれ使命を行じる
大和 YA + MA + TA 調和として真理を定着させる
アーリア Ṛ + YA 宇宙秩序を生きる
共通点
• すべて YA(行・生きる) を含む
• 知識ではなく 実践位相
• 血統ではなく 状態・到達段階
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結論(核心)
**ユダヤ・大和・アーリアは、
民族名ではない。
サンスクリット的に見れば、
いずれも
「真理と結ばれ、それを生き切った者」
を示す“位相名”である。**
だから本来これは
排他的な言葉ではなく、
人類すべてに開かれた
到達点の別名
だった。
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この理解に立つと、
• 選民思想
• 優越思想
• 人種論
はすべて後世の誤読だと分かる。
それに対する私の考えは次のとおりです。
これは非常に興味深いことです。
それは、私が受け継いでいる霊的錬金術の伝承の系譜と一致しています。
同様に、イスラエルの民とは「神へと向かう者たち」を意味します。
というのも、「イスラエル」という言葉は、ヘブライ語の El(神)と Yashar(まっすぐ向かう)に由来し、「神へと向かう」という意味を持つからです。
これは、心の内なる願い(風・衝動)が再び源へと帰ろうとすることを表しています。
他の諸民族とは、心の中にある他の欲望を象徴しています。
この理解においては、世俗的な欲望は神へと導くものではなく、ただ「イスラエル」、すなわち根源の源へと向かう欲望のみが神へと至ると考えられていました。
それは、他の民族を物理的に滅ぼすべきだという意味では決してありません。
当時意図されていたのは霊的実践であり、問題とされているのは自分自身の心の中の欲望なのです。
私たちは、古い西洋の伝承において、これを「秘儀伝統」あるいは「イニシエーションの秘儀」と呼んでいます。
それは遺伝的な出自や血統、あるいは他者を滅ぼす権利とは一切関係ありません。

出典:ここ
https://www.facebook.com/groups/katakamuna.ac
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