INRIとINARI (稲荷)

私は、次のFacebookユーザーによる非常に興味深い投稿をFacebook上で見つけました。

ぜひこの投稿をご覧ください。

私はこの投稿をここに転載し、その下に私の返信を記しました。

INRIとINARIをサンスクリットで解読すると

【INRI と INARI とは?】

一般には

INRI(イエスの磔刑銘) と

稲荷(INARI) は、

音が似ているだけの「まったく無関係なもの」だとされます。

しかし、言語・宗教・思想の**表層ではなく、構造(原理)**から見ていくと、

この二つは「完全に別物」と切り捨てるほうが、むしろ不自然です。

■ INRI をサンスクリット構文で読む

INRI はラテン語

Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum

の略号ですが、

音構文として分解すると:

I – N – Ṛ – I

サンスクリット的には、

• I(इ):生命の発動・行

• N(न):内在・生成の場

• Ṛ(ऋ):ṛta(宇宙秩序・法則)

• I(इ):成就・再帰

これは

「命が、内なる場を通って、宇宙秩序(ṛta)として顕現する」

という構文になります。

つまり INRI は

「王権」や「支配」を示す言葉ではなく、

真理を体現した存在位相を示す音構造だと読めます。

■ INARI(稲荷)をサンスクリット構文で読む

稲荷も同様に音分解すると:

I – NA – Ṛ(RI)

• I(इ):生命・行

• NA(न):内・生成

• Ṛ(ऋ):宇宙秩序・法

これは

「命が内なる場で、理(ṛta)として結晶・実りを成す」

という構文。

農耕神・商業神という後世の姿の奥に、

生成原理そのものを司る思想があることが分かります。

■ 共通点:INRI と INARI は「同型構文」

重要なのは、

• 同一人物説

• 秘密渡来説

• 血統論

ではありません。

**共通しているのは「原理構造」**です。

項目 INRI INARI

I 生命の発動 生命の発動

N / NA 内在・生成 内在・生成

Ṛ 宇宙秩序(ṛta) 宇宙秩序(ṛta)

本質 理を体現する存在 理を実らせる場

■ 仏教(天竺)との接続

天竺仏教は、

• ダルマ(法)

• 縁起

• 六大・三密

• 音・真言・曼荼羅

を通して、

宇宙法則(アーク)を主体にした教えです。

これは

アーリア思想・ヤマト的原理(言霊・生成)と

同一の宇宙構文に立っています。

■ 稲荷の起源と本地垂迹

稲荷信仰の深層には、

• 荷田竜頭太

• 対馬の天道法師

• 仏教的修法・天道思想

という系譜があり、

稲荷はもともと

仏教由来の生成思想が神道化(本地垂迹)した存在と見ることができます。

つまり、

稲荷は「最初から神道だった」のではなく、

仏教(天竺)→ 生成原理 → 日本的顕現

という流れを持つ。

■ 結論

INRI と INARI は、姿も宗教も異なる。

しかし、

同じ宇宙原理(アーク)をルーツに持つ、

別文化での顕現形

である可能性は、

言語構文・思想構造の両面から見て、十分に説明できる。

これは

民族でも、血統でも、陰謀でもない。

人類共通の「生成原理」が、

地域と言語によって別の名前を持っただけ。

そう考えたほうが、

仏教・神道・キリスト思想は

むしろ自然につながって見えてきます。

【INRIが語っている本当の物語】

イエス・キリストの物語は、

単なる「処刑された聖人の悲劇」ではありません。

十字架に掲げられた INRI は、

歴史的には

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という表記ですが、

物語全体を貫く“意味構造”として読むと、

まったく別の相が立ち上がってきます。

INRI を音構文として解読すると、

そこに現れるのは――

生まれ、現れ、移ろい、消えていく。

そして、また生まれる。

つまりこれは

諸行無常の理そのものです。

■ イエスの物語は「生と死」ではなく「循環」

イエスの誕生、教え、迫害、死、復活。

これは

「一人の人物の生涯」ではなく、

• 生の始まり

• 信の成立

• 形の崩壊

• 死による解体

• 意味の再生

という、信仰そのものの生成と消滅を描いた構文です。

だからこれは

「処刑の物語」ではない。

存在が現れては消える、

すべての事象に共通する無常の物語。

■ INRI = 諸行無常

INRI を構文として読むと、

• 命が現れ

• 内なる場を通り

• 理(法)として成就し

• そして消える

これは仏教で言う

**諸行無常(śūnyatā への移行)**と、完全に一致します。

違うのは宗教言語だけ。

キリスト教では「十字架」

仏教では「空」

日本では「理ことわり」

同じ理を、

違う言葉で語っているだけです。

■ INRI と INARI がつながる理由

ここで INARI(稲荷) が現れます。

稲荷とは、

• 稲が実り

• 荷が満ち

• そしてまた失われ

• 次の循環へ移る

生成と消滅の循環そのもの。

INRI が

「人の命・信仰・思想の無常」を語るなら、

INARI は

「自然・社会・生産の無常」を語る。

対象が違うだけで、

語っている原理は同じ。

■ 水穂伝の「水火」との一致

水穂伝における

水と火の教えも、ここに完全に重なります。

• 火:生起・発動・顕現

• 水:沈静・溶解・還元

生まれて、燃え、形を得て、

やがて溶け、還っていく。

これもまた

諸行無常の運動そのもの。

■ カタカムナも、突き詰めれば諸行無常

カタカムナは

「万物は渦として生まれ、渦として消える」

という世界観。

固定された実体はなく、

あるのは流れと変化だけ。

これは仏教で言う

無常・空を、

物理的・構造的に表現したものに近い。

■ 結論

イエス・キリストの物語

INRI

INARI

水穂伝の水火

カタカムナ

これらは別々の宗教・文化の話ではありません。

すべて

「諸行無常」という

宇宙の根本法則を、

それぞれの言語と象徴で語ったもの。

人物崇拝でも、

血統でも、

支配でもない。

生まれ、現れ、消え、還る。

それだけの、

そしてそれ以上でも以下でもない真理。

だからイエスの物語は、

二千年前の異国の話ではなく、

今この瞬間にも起きている、

私たち自身の物語なのです。

これは私の補足です

これは非常に示唆に富んだご指摘です。心より感謝いたします。ぜひ、少し補足させてください。

略号 INRI は、一般に考えられているほど明確に定義されたものではありません。INRI が「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」を意味するという説明は、実際には一つの仮定にすぎません。

福音書には、十字架に付された銘文として「イエス、ユダヤ人の王」といった内容の記述が見られますが、その表現は福音書ごとに微妙に異なります。

INRI という略号自体は、8世紀から10世紀頃にかけて、ラテン語表現を簡略化する形で成立したものです。

一方、精神的(霊的)錬金術においては、INRI は次のように読まれます:

Igne Natura Renovatur Integra──「火によって、自然は完全に刷新される」。

この解釈は、稲荷(INARI)の思想に、はるかに近いものです。

ここで重要なのは、錬金術の根本原理がSolve et Coagula(溶解と再結合)に基づいているという点です。すなわち、解体・浄化を経て、あらためて再構成されるという過程です。

Johann Wolfgang von Goethe の言葉を借りれば、次の通りです:

「そして、あなたがこれを持たぬ限り──『死して、そして生成せよ』を──あなたは暗い大地の上のただの陰鬱な旅人にすぎない。」

ここで語られているのは、**通過儀礼的な死(イニシエーションの死)**です。それは、イエスという存在が超自然的な存在として地上に現れ、人類を一方的に救済する──という理解(多くのキリスト教徒が抱く理解)ではありません。

そうではなく、すべての人間が自らの内で体験すべきプロセスなのです。

エゴは死に、そして「神的な人間」として再び立ち上がる。

キリストとは、一人の人物ではなく、プロセスそのものです。すべての人間は本質において神であり、いまは人間として生きているにすぎず、再び神的存在へと回帰することができる。

それがキリストの物語として語られているのです。

十字架刑は、この秘儀的イニシエーションの最終段階を示しています。そこでは、INARI と INRI の類縁性だけでなく、

* 十字架が 鳥居 を象徴していること

* 脇腹から流れる血が 朱(辰砂) の赤と対応すること

* 鳥居が朱色で塗られていること

など、多くの象徴的対応関係が見いだされます。

さらに思い起こしたいのは、**日本(ニッポン/ニホン)**という名称が「太陽の生まれる地」を意味するという点です。

キリストは太陽です。

キリスト教は日本から来た──そのような視点も提示し得るでしょう。

これらのテーマについては、はるかに深く論じることができますが、Facebook という場では不可能です。ここでは、あくまで探究を続けるための短い補足にとどめます。

西洋の既成権力は、この種の思考を抑圧し、自由に考えることを許していません。しかし日本では、こうしたテーマを探究しても迫害されることはなく、現在において自由な思索が生きている場所が日本であるとも言えるでしょう。

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